昨日はお盆のお墓参りをしてきた。
うちの墓、近い親戚の墓、そして私の実家の墓…等々。
全部、自宅から車で数十分圏内だから、近くてありがたい。
子供の頃から「お盆にはお墓参り」が定番なんだと躾けられてきたから、逆に参らないと罪悪感に苛まれてしまうんだよね。
まぁ、年に数回のことだし、お墓掃除も兼ねてやっているから、日常生活に必要なタスクの一つだと思ってやっている。
それにしても、お墓参りも盆参りもそうだけど、こうした供養に関する諸々のことは、死んだ人のためではなく、今生きている人のためにあるものだと、いつも感じている。
亡くなった人への執着を緩和し、死別の悲しみや苦しみを和らげるために、私たちは供養をするんだなぁ…と。
葬式や三十五日(四十九日)の法要など、たくさんの儀式をしきたり通りに滞りなく「喪主」としてこなしてる間は、死別の悲しみの淵からしばし離れて、社会と関わりを持ちながら、慌ただしく過ごす。
そして、ふと法要の時に「あっ、もう49日経ったんだなぁ…」と我に返る。
この時、「日にち薬」という言葉があるけど、時間の経過とともに、少しずつ少しずつ、生きている人としての日常を取り戻している自分にも気づく。
あのクソ面倒くさい「法要」を取り仕切ることで忙しくしていると、故人をしのんで悲しみにどっぷりつかっている暇なんてない。
実際に、身内の葬儀と法要を体験してみて、「これは亡くなった人のためにある、復活装置みたいなシステムだなぁ…」と強く実感した。
だから、お墓参りにしても、まだ故人への愛着と執着が残っている人には、墓は会いに行く場所として存在する。
故人の生前の姿と似ても似つかぬく異形の「石の墓」に手を合わせることで、「あの人は亡くなったんだ…」という実感が嫌でも湧いてくる。
こうして、少しずつ少しずつ故人から心を離して、生きている世界へと自分の心を戻していくこと…。これが供養の意義なんじゃないかな、と私は思っている。
昨日は台風接近で雨が降るんじゃないか…と心配したけど、雨に会うことなくお参りができた。
お盆を境に、夏が終わる。
今年の夏も、あと少し。