今朝は雨がしとしと降る中を、お墓参りに出かけた。
お墓は自宅から徒歩5分くらいの所にあるので、わざわざ車を出すほどでもない。
それに雨だから墓掃除もできないし、ただお参りをするだけだし、手荷物も少ないから、徒歩で充分だ。
ちょっとした荷物を夫と手分けして持ち、傘をさして墓に向かってとぼとぼと歩いた。
墓に到着したら、墓石の周りに落ちている落ち葉をササッと払って簡単掃除。
その後、花差しの水を入れ替えてお花をお供えし、小さな屋根がついている蝋燭立てに(灯をともした)ロウソクと線香をお供えした。
全てを「傘をさしながら」やっているから、なかなか大変…。
まあまあなんとか準備が整い、持ってきた数珠を手にかけてお墓にお参りをした。
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こうやって彼岸と盆にはお墓参りを律儀にしているけど、私自身はあまり墓に執着していない。ただ単純に「お参りしなくてはいけない」という社会ルールに従っているだけで、そんなに深い思い入れはない。
この墓で眠っているはずの故人たちの魂も、今はきっと他所で生まれ変わっているだろうし、私自身、過去世の自分の墓なんて、どこにあるかも知らないし興味も関心もない。
そう考えると、この世で今も生きている人たちの「満足」と「安心」のために墓があるんじゃないか…と感じられてくる。
◇
そう、「供養」って亡くなった人たちのためではなく、残された遺族のためのものだ。供養するたびに、一緒にいたあの人はもういない、亡くなったんだ…ということを自覚させられる。一緒にお参りする人たちと悲しみを共有し、淋しさが少しずつ和らいでいく。年忌を営むごとに、亡くなって〇年が経つのか…と知り、年月の経過と共に悲しみも薄らぎ、故人を(いい意味で)遠く感じられるようになる。
◇
亡くなった人の魂は、もう転生して違う人生を歩んでいる。
それなのに、私たちは空っぽの墓に向かって恭しくお参り続けている。
私たちはいったい何に向かって手を合わせているのだろう?
いろんな思いが心をよぎっていく。
◇
雨の中のお墓参りを無事に終えて、私たちは家に戻った。
雨は今日一日ずっと降り続けていた。
(今日の私のイラスト・お題は「雨」)